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近藤学税理士事務所


近藤 学税理士

事務所名:近藤学税理士事務所

所在地:京都府木津川市兜台7丁目9-5

電話番号:0774-75-2747

私たちは日本のスモールビジネス(小規模事業者。法律上の小規模事業者の定義は、概ね従業員数20名以下)の継続と発展への支援をその使命としています。顧問契約をして頂いた企業様は大きな家族の一員と考え資金繰りや税金など経営に関するお困り事の相談に乗り経営者様が安眠できるよう課題解決に全力を注いでいます。

  • 料金表示あり

  • スタッフ写真あり

  • ホームページあり

  • 経験10年以上の
    税理士在籍

事務所プロフィール

事務所名 近藤学税理士事務所
電話番号 0774-75-2747
FAX番号 0774-75-1370
HP http://kondotax.jp/
所在地 京都府木津川市兜台7丁目9-5
アクセス 近鉄京都線 高の原駅 下車 7分 (下記の地図を参考にイオンを通り抜けると早いです)
最寄駅 近畿日本鉄道/近鉄京都線/高の原
開業年 1996年
代表者名 近藤 学
駐車場 なし
得意分野 経理・決算 | 確定申告 | 経営相談
会計ソフト MFクラウド会計

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プロフィール


近藤 学税理士

代表税理士

1963年京都市内で、漬物屋(創業江戸時代)の2男として生まれる。

 京都市立醒泉小学校卒業
同志社中学、同志社高等学校、同志社大学商学部と新島襄・八重の子供として育つ。

 私の小学生の頃は商家の子供が多く、私も小学生の頃から家業の手伝いをしており
特に冬は忙しくクリスマスは海のむこうのお祭りと思っていました。

 中学1年生2年生時は野球部に所属したが補欠。
球拾いばかりしていて真冬の練習があまりに寒く、隣で練習していたラグビー部の密集からわき出る湯気を見て暖かそうと心を動かされる。
 中学3年生から、高校3年生まではラグビー部に所属ポジションは2番(フッカー) 
一番身体は小さかったが高校1年生時の常軌を逸した猛練習を耐え抜き高校2年生からレギュラー
あの高校1年生の時の練習を思い出せば大概の苦境は乗り越えられる自信がつきました。
 中学高校両方で近畿大会に出場したが両方共ベスト8どまり、最終成績は全国大会京都予選準優勝で惜しくも花園行きのキップを逃す。高校3年生の近畿大会京都府予選決勝で前年に全国大会を制した伏見工業を敗ったのが、ラグビー人生で最高の勲章。

 無理がたたり高校3年時に重度の椎間板ヘルニアを患い同志社大学でのラグビーを断念。
(因みに、私が大学1年から3年まで同志社大学は平尾誠二選手などを擁し全国大会3連覇)
スポーツはもちろん歩くことさえままならず、母親が家業の経理を手伝うためにと薦めた簿記学校に通いだしました。
それがきっかけとなり大学2年生から税理士を目指すことになる。人間万事塞翁が馬とはこのことかなと今思います。

1986年大学卒業後 家業の漬物屋を約2年間手伝う。経理事務と千里中央のスーパーや嵐山の土産物店での店頭販売を行ってました。時代はバブルまっただ中、同級生たちは東京などの大都会でこの世の春を謳歌していましたが私は税理士試験予備校と実家の往復だけの暗い生活。それから脱出するためなぜかカナダのバンクーバーへ。

 カナダに行く前に、一応カッコいい外資系会計事務所アーサーアンダーセン大阪事務所の入社試験も受験しましたが、あまりに英語の出来が悪かったのでしょう合否の連絡もなく完全に無視されました。
 悔しいので当時大阪にもうひとつあった外資系事務所プライスウオーターハウスに帰国したら就職して、アーサーアンダーセンを見返してやろうと暗い情熱を燃やしていました。

 ちなみにアーサアンダーセンは、その後エンロン事件で消滅。

 1989年から1991年までカナダバンクーバーにワーキングホリデーで滞在。暗い青春時代から一転、めちゃくちゃ楽しく自由な毎日で昼間は英語学校に通って夜は友達と遊び呆けてました。

 そんな時、たまたま中古車を買った日系人の自動車屋さんに日系人の会計士さんを紹介してもらいました。日本の税理士試験に受かったら使ってやるということで、1990年一時帰国し税理士国家試験合格、結局あしかけ6年かかりました(簿記論、財務諸表論、所得税法、法人税法、相続税法)当時国税三法と呼ばれ税理士試験合格組の中では王道を行ってました。

 そしてワーキングホリデービザをを取得してカナダに戻り、ダウンタウンの大橋巨泉ビルに入居していた現地会計事務所Shikaze & Co.に勤務することができました。しかし英語学校の先生の英語は100%聞き取ることができるようになっていましたが、職場の中で聞く生のカナダ人の英語は全く別物でした。何を言ってるのか全く分からない。ただ複式簿記のルールは世界共通で、税理士受験で鍛えていた電卓を叩くスピードはカナダ人の度肝を抜くほどでしたので、なんとかかんとか仕事をこなしましたが、やはり絶対的な英語力が不足していたため数ヶ月でこいつは使い物にならないと見切りをつけられました。

 クビになる時に、このまま放り出すのも可哀想だから、日本人クライアントも多い大手の会計事務所を紹介してあげようといって連れて行ってもらったのがプライスウオーターハウスのバンクーバーオフイスでした。鮨が握れない限り日本人がカナダでワーキングビザをとるのはかなり困難でしたので、大阪オフィスに電話してもらいました。するとたまたま空きがあったので、プライスウオーターハウスの税務部門に働くことができるようになりました。計らずしてアーサーアンダーセンを見返すことに成功してしまいました。

 1991年に税理士登録をすませ、大阪の本町にあったプライスウオーターハウスの大阪事務所で働きはじめました。しかし想像していた外資系会計事務所の自由さや格好良さはそこにありませんでした。上司は超職人肌の謹厳実直、仕事の鬼みたいな方でカナダで半分プータローのような生活をしていた私はことあるごとに叱られましたが、仕事の厳しさをこの方からいっぱい教わることができました。しかしまるでお役所仕事のようなルーティンワークと手続きの煩雑さと超保守的な体質による不自由さに身体がアレルギー反応を起こしていました。

 朝7時に顧問先にファックスを送るのに、「自宅のファックスから送ります。」と上司に言ったら、7時に出社してから送れとこっぴどく怒られたことがあります。今思えば、これがトラウマとなってクラウドやノマドに心を惹かれているのかもしれません。

 もうひとつ不満だったのは、IT 環境の貧弱さ。私は、実家で経理事務をやっていた1987年頃に当時高価だったアップルのマッキントッシュPLUSを導入し、PCAの会計ソフトをインストールした当時最新だったNECPC98の32ビット機と並べて使っていました。ハイパーカードで振替伝票をきり、PCA会計に入力するという今考えても斬新なことをやってました。日経パソコンから取材の話もありましたが取材される前にカナダに渡っていました。

 外資系会計事務所ってどれだけIT化が進んでるんだろうとワクワクして入社したのですが、50人ぐらいの事務所にフロッピーディスク駆動の16ビットのPC98が2台しかなくタイプライターが主力、会計事務所なのに会計ソフトもないという想像を絶するアナログさにショックを受けました。社外文書は全てタイピストが打たないといけないという暗黙のルールがあり、タイピストにへそ曲げられると仕事が前に進まないので事務所の中でタイピストが裏権力者になっていました。この非合理な状況をなんとか改善しなければと思い、自前のMacとギザギザの無いtruetypeフォントを出力できる最新のインクジェットプリンターを持ち込み、複雑な表の入った文書はExcelでつくった方が効率的であり見た目も奇麗であることを証明しながらIT環境の改善に努めました。

 結局4年ほどで退職。それでも、まだバブルの名残もある豊かな時代で待遇も良く上司、同僚には良い人もいっぱいいて無責任で楽しいサラリーマン時代でした。

 1995年に大阪市中央区の比較的大きな会計事務所に就職しました。前職では普通の日本の税務が学べなかったので資産税などが強そうな事務所を選んだつもりでした。しかし私のような変な経歴の人間には普通の税理士の仕事はさせてもらえず何でも屋に。色々と理不尽なこともあり強烈なストレスで胃に穴があきそうな毎日でした。おなかが痛くてトイレから出られなかったり、泥酔して中の島公園で寝たり、これはヤバいと辞表を提出して退職し、晴れて無職に。独立したらなんとかなるだろうと思ってました。この時ちょうど婚約中でいまから思えば無謀でした。

 独立時のエピソード。事務所を辞めようかどうか悩んでいるとき、たまたま地下鉄の北浜駅の出口でスーツ姿の青年に小さなビラを手渡されました。普段はチラシなんてとらないのによっぽど心が病んでいたのか、その時だけは無意識に手を伸ばしていました、中身を読むと船井総研主催の起業セミナーでした。講師は当時税理士業界を賑わしていた記帳代行会社の社長と数名の起業家の方。その講師の中の一人が後に一緒にサムライコンサル塾を立ち上げることになるまだ20代の柳生寛雄さんでした。このセミナーで熱い感銘を受けて、その1ヶ月後に辞表を提出し講師をされていた記帳代行会社の社長さんに電話をしました。

 1996年大阪市北浜で独立開業 記帳代行会社の社長さんに紹介してもらった公認会計士江崎誠先生(後にブレーク)たちと共同事務所をひらく。毎夜酒盛りが行われる楽しい事務所でした7坪ぐらいの部屋に常時5人ぐらいがひしめく状況で酸素不足になり天満橋で個人事務所を開業することにしました。まだ顧問先が少なく生活のためアルバイトで大栄税理士学院にて所得税法の講師をしていました。天満橋の事務所は機械のセキュリティがなく管理人さんが8時に鍵を閉めてしまうので講師を終えたあと事務所に戻れないという不便さ(なんで事前に調べへんかったんと言われました。アホでした)と経済的事情や通勤時間がかかり過ぎるので自宅に事務所を移しました。

 自宅に事務所を移した頃は、長女が生まれた頃で稼がないとならず、体力勝負でどんな仕事でも受けまっせ状態でした。2年間決算をやってないという有限会社の魚屋さんからお金を借りるのに決算書が欲しいと言われ、発泡スチロールのトロ箱5個ぶんくらいの魚臭い請求書や領収書を、子供が寝静まってからひたすら朝まで弥生会計に入力したこともありました。実際は3年間決算がされてませんでした。

 こんなことばっかりやってたらあかんと思ってた2000年頃、ITバブルがやってきました。インターネットが一般化される前に人気があったニフティサーブのパソコン通信で、ある起業家と知り合いネットベンチャー企業の立ち上げに参画、ブームに乗ってマザースかナスダックの上場を目指すことにしました。自らもi modeを利用した会計システムを発案し大前研一氏主催のビジネスプランコンテストの最終選考まで残りました。もしも本戦に残っていたら、孫正義さん、ジャックウエルチさん、もちろん大前研一さんの前でプレゼンをするところでした。そうこうしてるうちにITバブルが崩壊して、結局本業に回帰しました。

 そのネットベンチャー企業は私の退職後も生き残り、最終的に大手企業に買収され創業者は大金持ちになり現在ではアジアで大地主になりました。

 この後は、事務所を何回か移転したりしてますがここ5年は自宅の近くにおります。講師の仕事も多いですが、基本的には税理士業をベースに小規模になんとかやってます。

2001年 オープンしたばかりの大阪産業創造館 Bplatsにおいて講師 京都市中京区に事務所移転

2002年  WEB サイトをオープンし集客をはかる。ライバルが少なかったので、かなり集客できた。
        この頃は、税理士と顧問先のマッチングサイトの黎明期で、どんどん紹介がきました。

2004年  流行に乗ってブログオープン 現在も継続中 京都市伏見区(竹田)に事務所移転。TKCに入会。

2005年頃 身近なところで企業倒産と企業再生の実務を経験する。
         京都府より中小企業経営革新支援法にもとづく経営革新計画の承認を受ける。

2006年 企業倒産の渦中での学びを本にし、九天社より「なぜ、金持ち会社は節税しないのか?」を出版

2007年 事務所を伏見区(丹波橋駅前)に移転 大和書房より「儲からないと嘆く前に読む会計の本」を出版。
       京都を舞台に小説仕立てのビジネス書。アクションあり、ラブストーリーありのなかなかの名作。
       この頃非常に忙しくなり始発に乗って最終で帰る毎日(しかし儲からないと嘆いていた)。

       日本一のマーケターと言われる神田昌典さんのお弟子さんで売り出し中だった平秀信さんの
       教材を買ったら、無料でハワイに連れて行ってあげると言われた。嘘だと思っていたら本当に 
       連れて行ってもらえた。そこに参加した人で後にネット業界等で有名人になった人が続出。    
       そこで初めてマインドマップを知った。

2008年 ブザン公認マインドマップインストラクター資格取得
       その後老若男女1000人以上の方にマインドマップを教えさせて頂いた。
       中小企業大学校旭川校、タナベ経営にて会計セミナー
       職住近接実現のため京都府木津川市の自宅近くに事務所移転。
2008年 税理士児玉尚彦先生の経理合理化プロジェクトにインスパイアーされて
      税理士コンサル化プロジェクトを立ちあげ全国的な税理士ネットワークを構築。
      児玉先生をはじめ著書のあるような面白い税理士さんもにいっぱい参加してもらった。
      クラウド型経営計画システム トリプルアイ 完成。
      2回目の経営革新計画の承認を受ける。


2009年 ダイヤモンド社より「一番楽しい会計の本」を出版
      福島正伸先生の究極のコンサルタント養成塾第4期に参加。
      この参加者からも後に多くの人がブレークした。

2010年 twitterのつぶやきが縁で凄腕コンサルタント柳生雄寛さんと再会し一緒にサムライコンサル塾を立ちあげ
      大阪第1期に参加する。そのあとサムライコンサル塾は大成功。

2011年 世界NO.1スモールビジネスグル(指導者)マイケルE.ガーバー氏より
       起業家育成プログラムDreaming Roomファシリテーターの認定を受ける。
       神戸で初フルマラソン完走。
       大阪産業創造館あきないえいどのサポーターとなる。

2012年 Dreaming Room の認定セミナー(3ヶ月間12回)を計3講座開催。
      講師の私より受講生の方が大物という珍しいセミナーでした。
      遠藤晃先生のチームNO1に参加。ここでおもろい人といっぱい友達になる。

2013年 経済産業省より経営革新等支援機関の認定を受ける。   
       会計ボードゲーム 「あきんど」を開発。
       エレファントパブリッシング社より初の翻訳書「あなたの中の起業家を呼び起こせ!」を出版。
       著者のマイケルEガーバー氏とメールで相談しながら
       1年半以上かけて強烈な肩こりと闘いながら翻訳しました。
       マインドマップで脳みそが活性化したため50近くになって英語力が急伸したのだと思います。
       この時に人間の能力に限界は無いと感じました。
       10年間お世話になったTKCを退会。

2014年 資金繰り表を簡単に作る方法は無いかとシステム会社に相談。なかなか意図したことが通じず、金額的にも高くなりそうだったので、エクセルでたたき台を作ろうとパソコン教室でVBAを習い始める。

元エンジニアの非常に良い先生で、ソフトは使う人が作るのが一番良いという信念のもと私からやりたいことを聞き出してサンプルプログラムを作って見せるという教え方が功を奏し、3ヶ月ほどで「こがねむし」という資金繰り実績表ソフトの原型を完成させました。

 弥生会計などのデータから一発で日次と月次の資金繰り表を作成するというスグレモノです。

高速化のためにプロのエンジニアに見てもらったら「ほんとにこれ自分で作ったんですか?」と驚愕されました。

 その後派生ソフトをつくり数が増え、自分の税理士業務が非常に楽になりました。これと同じ環境を他の税理士さんにシェアしてもらうために、「資金繰り予報士®こがねむしクラブ」を創設しました。2016年4月現在約100名の方に登録してもらっています。今も日々新しいソフト開発に取り組んでいます。

代表税理士/経歴

1963年京都市生まれ
同志社大学商学部卒
1990年税理士試験合格
カナダの会計事務所勤務後
外資系大手会計事務所大阪事務所勤務
1996年税理士事務所を独立開業
資金繰り表作成のプロフェッショナル集団「資金繰り予報士®こがねむしクラブ」主催 部長

著書

代表プロフィール

氏名 近藤 学
性別 男性
生年 1963年
出身地 京都府
資格 税理士

地図

事務所名 近藤学税理士事務所
所在地 京都府木津川市兜台7丁目9-5
最寄駅 近畿日本鉄道/近鉄京都線/高の原

料金・事例

最低金額
月額顧問料 個人 20,000円〜 | 法人 30,000円〜 確定申告・決算 個人 60,000円以上 | 法人 100,000円以上
月額顧問料の内容
料金表
法人
http://www.kondotax.jp/fee.html

個人
http://www.kondotax.jp/feekojin.html

イベント・講演会

イベント・講演会のお知らせはありません。

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